2014/11/02

アートと付き合うということ


絵に描いた人の顔、人の顔として見続けないと人の顔に見えてこない。
サルトルはこう考えたらしい。
きっと、美術作品も、「これは美術だ」って思い続けて観賞しないと、美術作品だと思えないのかもしれない。


ヨコハマトリエンナーレに行きました!
今回も最後の3日に駆け込むという、わたしの得意技!

Temporary Foundation 2014

Dora GARCIA Fahrenheit 451(1957) 2002


1日現代アート漬けになって思ったことは、現代アートはものすごく「頭を使う!」ってこと。
普段、日常生活では決して使わないような神経を使い、考えるに考えても答えは出ないし、肉体的にも精神的にも疲れ果てました。
アートって大変!


色々思ったことはあるけれども、
一番興味をもったのは、やっぱり「参加」が伴うアート作品。
この前の森美のリー・ミンウェイ展もそうだけど、やっぱり参加型アートはわたしの中で今とてもアツイ!


気になったのがフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品たち。
四角い物体が置いてあってこれは何?と思ったらなんと画用紙が重なってて、自由に取って行っていいとのこと。
彼の作品は、ただ観賞の対象になるだけではなくって、人の手に渡り共有されることで初めて成立するんです。

もっとすごいのは、同じことをキャンディで行った作品があるとか。床一面に広がったキャンディを勝手に持って行って、なめていいとのこと。
これは美術作品になるのか?


森美術館で扱う作品のひとつに、リー・ミンウェイの作品<プロジェクト・ともに食す>というものがあります。
作家のミンウェイさんと抽選で選ばれたお客さんが一緒に、閉館後の美術館でごはんを食べるというものです。
リレーショナル・アートの師匠、リクリット・ティラヴァニの作品にも同じようなもの、ギャラリーに招いたお客さんにパッタイを振る舞って、みんなでわいわい食べることがアート作品になるというものがあります。
さて、こうゆうの、美術作品になるのか?


考えようによっては、彼ら2者の作品は、単なるイベントになってしまうかもしれない。
フェリックス・ゴンザレスのキャンディも、クルマ屋さんに置いてあるキャンディの箱と同じになってしまうかもしれない。


でも、それをアートとして観るためには、やっぱり、これは「アート作品だ」っていう規定を付けて、それに合わせて自分なりに考えて行くことが必要なんじゃないかな。
この前の投稿の繰り返しになってしまいますが、「アートとは何か」を考えることが、アートの根底にはあると思います。メタ・アート的なね。


アートは、わたしたちに「考える」ということを課しているんだと思います。考えるっていうとなんだか堅いけれども、答えがあるわけじゃないし、自由に好きに想像力広げればいいんじゃないかな?

自由に、自分に好きなように、付き合っていくと、美術は一生の友になる!飛躍しすぎですがそう思いました!


自由に、好きにアートする!



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